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平和の礎(いしじ)

5月31日(土)、沖縄プライマリ・ケア研究会のご依頼で那覇へ行ってきました。
梅雨の沖縄…きっと湿気がすごいだろうなと思っていたら、
事前の天気予報では、晴れ
ところが、13時過ぎに到着すると、スコールのような雨
しかし、そこから急速にお天気は好転。
講演の時間までを利用して、“平和の礎(いしじ)”に連れて行ってくださいました。
沖縄戦終結50周年を記念して1995年に建設された記念碑です。

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平和の礎がある平和記念公園は、
毎年6月23日におこなわれる「慰霊の日」の式典会場として
テレビで見たことはありましたが、
思っていた以上に広大な敷地。
ガジュマルや松の樹々や芝生の緑が豊かなところでした。
米軍の沖縄本島上陸で、一般住民の多くは南へ向かって避難。
本来は首里にあった沖縄本部が降伏して終結するはずが、
本土決戦を避けるための時間稼ぎをしたい軍部の指令で、
降伏せずに日本兵も南へ移動。
追い詰められた多くの一般住民と日本兵が大勢亡くなったのが喜屋武岬です。
平和の礎がある平和記念公園やひめゆりの塔などがあります。

那覇市内から車で南へと移動しながら、
戦争中は、整備されていないこの土地を歩いて避難した人々を思い、
そして、平和記念公園の南端に立ったときに目の前に広がった景色。

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この太平洋を目にしたとき、解放感はまったくありませんでした。
逃げて、逃げて、南を目指し、
ここに行き着いたときの絶望感…
もうこの先は逃げる場所がない…
そう当時の人々の胸中を察すると、胸が押しつぶされる思いでした。

平和の礎には、沖縄戦で亡くなられた人の名前が地域にわけられて記されています。

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沖縄の人も、他県の人も、日本兵も米軍兵も、一人ひとりの名がありました。
「沖縄戦で20万人が亡くなった」と数でひとまとめにして聞くのと違い、
お一人おひとりの名前を見ていると、
確かに生きた一人ひとりの“いのち”を感じました。
その後、平和記念資料館へ。

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沖縄戦に至った経緯や戦後の沖縄が常設展で紹介されていました。
なかには、銃弾に倒れて死亡した女性とそれを見下ろしている米軍兵士の写真、
泥だらけで立ちつくしている子どもの写真、
145人の沖縄戦体験者の証言文などが展示してありました。
初めて訪れて「今度はもっとゆっくり時間を作って再訪したい」と強く思いました。
人間の人生は、長くても80~90年そこそこ。
一人の人間としてさまざまな気づきを得たときには、人生の終盤だったりします。
だから、世の中が進んでも、人は過ちを繰り返すのでしょう。
だとすれば、早くに気づきを得るためには、歴史に学ぶことが不可欠。
その思いをさらに深くしたひとときでした。

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